技術開発の社会的背景
水稲作では高齢化や担い手減少が深刻なことから、作業の省力化や生産コストの削減が求められています。これらの解決手段として、田植えを必要としない直播技術が開発されてきましたが、直播栽培の普及面積は未だ水稲作付面積全体の1%余りに過ぎません。直播栽培の普及が進まない最大の問題点は、水田に直接播種すると種子が出芽しても途中で枯れてしまうことが多くなるという苗立ちの不安定さにより、生産量が安定しないことにあります。その改善策として、これまで、酸素発生剤の種子への被覆と、播種後の水田の落水によって、種子に酸素を供給してきました。しかし、1.酸素発生剤は費用が高く、2.種子への被覆も手間がかかるうえに、3.播種後の水田の落水は雨が続くと難しく、4.落水により雑草発生が助長されること等が、大きな課題となっていました。
技術開発の着想
水田土壌中に播種された水稲種子の周辺では微生物が活発に酸素を消費するため、有害な硫化物イオンが発生し、この硫化物イオンによって苗立ちが阻害されることを明らかにしました。そこで、モリブデン酸イオンが硫化物イオンの生成を抑制することに着目し、モリブデン化合物を種子にまぶして、苗立ちへの効果を調べました。
開発技術の内容・意義
モリブデン化合物を水稲種子にまぶすと直播での苗立ちが改善されます(図1)。この方法は、酸素発生剤を被覆する従来法と比べて、以下の特長があります(表1)
- 酸素発生剤は酸素を供給して硫化物イオンの生成を抑制するのに対し、モリブデン化合物は酸素が無くても硫化物イオンの生成を抑制します。
- モリブデン化合物は少量まぶすだけで効くため、資材の量を1/100程度に、費用を1/10程度に低減できます。種子に少量の資材をまぶすだけなので、処理の手間もかかりません。
以上から、水稲種子にモリブデン化合物をまぶす手法は、水稲の直播栽培の普及を推し進める基本技術となることが期待されます。



技術開発の今後の予定
現在、ほ場試験による確認を行うとともに、苗立ち向上効果が高いモリブデン化合物の種類を探しています。さらに、酸素が無くても苗立ち向上効果が得られるモリブデンの効果を生かし、落水なしでの栽培法(図2)等についても検討していきます。また、苗立ち向上を目的として生産現場でモリブデンを利用するには農薬登録が必要となります。このため、農薬登録に向けて必要なデータが得られるように関係機関に働きかけていきます。
利用上の注意点
モリブデンはこれまでにも肥料に添加して利用されています。しかし、今回のように苗立ち向上のために利用する場合には、農薬取締法に基づき農薬として登録しなければなりません。現状では、農薬としての登録が行われていないため、生産現場で使うことができません。詳細については、九州沖縄農業研究センターお問い合わせください。
用語解説
- 苗立ち
- 播種された種子が出芽した後、植物体として正常な生育が可能な状態で土壌に定着することです。苗を水田に植える移植栽培と比べて、種子を直接水田に播種する直播栽培では、苗立ち不良が起こりやすくなります。
- モリブデン
- 植物の微量必須元素の一つで、酸性土壌で欠乏しやすく、肥料に添加されることもあります。土壌中で、モリブデン(Mo)の代表的な形態であるモリブデン酸イオン(MoO42-)は、硫黄(S)の代表的形態である硫酸イオン(SO42-)と分子構造が似ているため、硫酸イオンと拮抗し、硫酸イオンからの有害な硫化物イオン(S2-)の生成を抑制します。酸化モリブデン(MoO3)は代表的かつ安価なモリブデン化合物です。
- 硫化物イオン
- 土壌中で酸素不足が続くと、硫酸イオン(SO42-)が有毒な硫化物イオン(S2-)に変化します。
- 酸素発生剤
- 播種した種子周辺の酸素不足を解消するために用いられる資材のことで、種子に被覆して使います。水に溶けると酸素を発生し、種子の生育を促進します。現在、過酸化カルシウム(CaO2)を16%含む製品が、1、500円/3kgほどで販売されています。一般に、浸種して発芽直前とした種子に、乾燥種子重量の1~2倍の酸素発生剤を被覆して使います。