ダイバーシティ推進 Diversity and Inclusion

ハバラガムワ ハルシナ 農業情報研究センター 農業AI研究推進室 主任研究員 スリランカ ペラデニヤ大学農学部を卒業後、バイオシステム工学修士課程に進学。その後、2013年に京都大学大学院農学研究科(修士・博士)のバイオセンシング工学研究室に留学し、博士号取得。2018年に農研機構に任期付研究員として採用。2020年から現職。

研究で困難なこと=Interesting! 面白いと感じ、興味を持つことが大切

スリランカから日本へ

スリランカの古都アヌラーダプラの近くで生まれました。スリランカの大学を卒業してから大学院修士課程へ入学しましたが、途中で日本に留学しました。留学先を日本に決めたのは、AIやロボット分野での研究が進んでいることと、もともと日本の文化に興味を持っていて、日本に来る前にも日本のテレビ番組や記事などに注目していたからです。
大好きな京都での留学生活は本当に楽しくて、自分がやりたい研究ができたので、研究生から修士課程、博士課程までの6年間はあっという間に過ぎていきました。
京都大学大学院では、イチゴ収穫ロボットの研究をしていたのですが、その際に、農研機構が開発したイチゴ収穫ロボットを見る機会がありました。高い技術を目の当たりにして、「すごいな!農研機構に入りたい!」と思いました。そして念願の農研機構に就職が決まり、自分が追求したい分野の研究を続けるチャンスを得ることができました。

農研機構での研究

大学院では、収穫に適したイチゴを検出する画像解析のAI、その後、説明可能なAI(XAI)の研究をしていました。現在、それらの機能を使った研究をしています。
昨年は、農作物の病害虫の判断の根拠となる画像の特徴を可視化できる新しいAIを開発し、特許を取得しました。
「説明可能なAI」とは、これまではAIが出した結果はどのような過程を経て得られたものかわからないブラックボックスモデルといわれるもので、たとえば、病気の葉っぱの画像を見て「これは病気です」とAIが判断しても、どうして病気と判断したのかその理由を知ることができませんでした。
そこで今回、オートエンコーダという技術を用いて、学習した特徴を可視化できるAIを開発しました。「こういう(葉っぱの色が黄色くなっている等の)症状が見られるので、こういう病気にかかっている」というように、AIが出した診断結果を、目で見て確認することができます。
このAIをジャガイモの葉の病気診断に試してみたところ、病気の特徴に基づいて、病気か健全かを95%以上の高い精度で診断することができました。
今後、私たちが開発したシステムを広い分野でみんなに使ってもらえたら嬉しいですね。

休日の過ごし方

京都に住んでいた時は、休日によく自転車に乗ってあちこち観光しました。今は東京で、気分転換のため公園で散歩しています。日本の歴史にとても興味があるので、特徴があるところを探して出かけています。先日も古墳がある公園へ行ってきました。
日本の食べ物も美味しいですが、故郷の味が懐かしくなると、自分でスリランカの料理を作って食べます。魚を煮込んでいろんな香辛料で味付けをしたカレーが多いです。スリランカはインドが近いからか辛いカレーのイメージを持つ方も多いですが、どちらかというとタイ料理に近いですね。

研究において大切なこと

研究の世界で活躍できることは本当に嬉しいことです。学生時代とは比べられないほど忙しい日々を過ごしていますが、有意義な研究に集中できていて、モチベーションもどんどん上がっていると感じます。
当時お世話になった京都大学の先生と一緒のプロジェクトで研究をしているため、最近よく話をします。卒業後もつながりを持って一緒に研究できることを嬉しく思います。
研究はいつも大変だけど、好きなことなので楽しいです。難しいことにはどんどんチャレンジしていきたいです。チャレンジすることが無くて簡単では楽しくありません。研究で困ることがあっても、Interesting! 面白いと感じ、興味を持つことが大切だと思います。

研究者の国籍もよりダイバーシティに

同じ大学院に留学していた後輩が、今年、農研機構に入ったと聞きました。直接自分がきっかけになったわけではないのですが、嬉しいです。
農業情報研究センターには私以外にも外国籍の研究者が数名所属しています。組織全体でも外国人研究職員が増えていると感じています。国籍が多様化することで、新しいイノベーションを起こせるのではないかと思っています。

中野区の神田川。たくさんの建物があってもとても美しい東京に驚いています。/恵比寿ガーデンプレイス。妻と一緒に素敵なイルミネーションが見たいです。/とても穏やかな日の金閣寺。池に映る姿も完璧でした。穏やかな場所がとても好きです。/京都大学のすぐ隣の白川通。当時、この通りの近くに住んでいました。