西日本農業研究センター

所長室だより -作物の新品種開発と国際条約-

所長室にて農業関係の試験研究成果のうち生産者や消費者、そして実需者に分かりやすいものは、水稲などの作物や、野菜・果樹、花などの新品種であろう。
毎年春や秋には農業関係の新聞に「新品種開発」の活字が載り、さらにはテレビで放映され宣伝されると、「姿」や「形」が実感でき、新品種の味や花の美しさを想像して何だか少し幸せな気分にさせられるものである。
農研機構では、水稲、小麦、大麦、大豆、サツマイモなどの普通作物の他、果樹、野菜などの新品種開発の事業を推進しており、毎年新品種を公表している。
手前味噌になるが、私どもの近畿中国四国農業研究センターでも、水稲、小麦、裸(はだか)麦および大豆の新品種開発を実施している。
最近、γ-アミノ酪酸(GABA)含量が高い巨大胚の水稲の新品種「はいいぶき」、炊飯後にほとんど褐変せず、また、もち性であるため食味に優れ、食物繊維である「β-グルカン」含量が高い裸麦の新品種「キラリモチ」や、製粉性が優れ、アミロース含有率がやや低く、ゆで麺の食感が優れる小麦の新品種「ふくほのか」などを育成した。
これらの新品種が府県の奨励品種に採用され、生産者に広く栽培され、消費者の食卓に届けられることを期待したい。
さて、作物の新品種開発は、交配してその子孫の中から優れた特性を持つものを選抜するという交配育種法が主であるが、この交配育種法では交配に用いる親品種を適切に選ぶことが重要である。
このような交配に用いる親品種のことを遺伝資源といい、特に作物に関係するものを植物遺伝資源といっている。
わが国は、多くの作物について新品種開発が盛んであるが、アジア大陸の東端に位置し、島国であるという地理的な条件があり、植物遺伝資源は他の国と比べるともともと豊かではなかった。
そのため、古くから中国などから植物遺伝資源を輸入して、多様性を高めてきた。
特に、明治政府は国をあげてリンゴやジャガイモなどわが国にはなかった植物遺伝資源をアメリカやヨーロッパから導入して、新たな作物栽培の普及を図った歴史がある。
そのような地道な収集導入を継続して行ってきた結果、今日のような活発な作物の新品種開発が成立していると言える。
約20年前まで遺伝資源は「人類共通の財産」という考えがあり、誰でも自由に海外から探索導入し、新品種開発などの材料として利用できた。
すなわち、遺伝資源の収集と利用に関する国際的な条約は制定されてはいなかった。
植物遺伝資源は、もっぱら開発途上国の方に豊かな多様性があるため、植物遺伝資源は開発途上国から先進国へ導入されることが多かった。
そして開発途上国が善意で分譲した遺伝資源を先進国が利用して新品種を開発し、育成者権などの知的財産権を設定し、開発途上国に売りつけるという構図がいつの間にかできあがってしまった。
そのため、途上国側から、遺伝資源に対する「人類共通の財産」という考え方に疑問が示され、議論の結果、1992年に生物の多様性に関する条約が採択された。
この条約は、「遺伝資源の原産国主権」という、それまでとは180度異なる考え方を採用した。
その結果、遺伝資源の収集導入は、成果の利用、成果から生ずる利益の配分までを含めた原産国の同意が必要となったため、以前より相当困難になっている。
今年の10月18日から名古屋で生物多様性条約の第10回締約国会合が開催される。
現在、日本政府が主催する、あるいは関係団体が企画するイベントがいろいろ計画されているようである。
締約国会合で最近議論されているホットな問題の一つは、遺伝資源を利用した成果から得られる利益をどのように配分するかである。
利害の関係する者が多いため、今のところすべての締約国が納得できる結論までは至っていないようである。
利益配分に関して、個人、民間企業、都道府県試験研究機関、研究独法、さらには大学など作物の新品種開発を実施している者が十分注意しないといけないことが一つある。
それは、生物多様性条約が発効(1993年12月29日)以降にわが国へ導入した植物遺伝資源を利用して開発した新品種に、品種登録に基づく育成者権、あるいは特許法に基づく特許権のような知的財産権を設定する場合は、導入先の相手国から事前に同意を得ておく必要があることである。
これを怠って知財権を設定すると、相手国からばかりでなく国際的にもバイオパイラシー(生物資源の海賊行為)の汚名を着させられることがある。
場合によっては、そうした批判により企業のイメージが損なわれ、利益の大幅な低下も生じかねない。
まして政府の研究独法や自治体の試験研究機関でバイオパイラシーとして非難されるような行為があってはならない。
コンプライアンスの一つとして十分遵守しないといけない。
最近、生物多様性条約発効以降に導入された植物遺伝資源を利用した新品種が公表されてきている。
育成者権あるいは特許権を審査する任にある者は利用した植物遺伝資源の出所およびその導入の経過、契約などに十分注意したいものである。
2001年に遺伝資源に関する新たな国際条約が発効している。
それは食料農業植物遺伝資源国際条約と呼ばれるもので、生物多様性条約の枠組みのもと、とくに食料や農業に直接関係する植物遺伝資源の円滑な利用と利用から生ずる利益の配分を促進することを目的としている。
政府が管理する水稲など35の作物と29属の牧草類を対象として、標準材料移転契約を使って生物多様性条約よりは簡単な手続きで植物遺伝資源にアクセス(入手)できる新たな仕組みを設けている。
参考のため、生物多様性条約と食料農業植物遺伝資源国際条約の特徴を表に示す。
わが国は生物多様性条約を受諾したが、食料農業植物遺伝資源国際条約には今のところ加入していない。
加入していない理由は、この条約で受領した植物遺伝資源から単離・精製された遺伝子に特許権が取得できるかが不明なためとしている。
しかし、大川ら(2010、印刷中)は、条文はわが国の知的財産権制度と整合し、植物遺伝資源からのDNA関連発明は,特許を取得できるとしている。
したがって、わが国もこの食料農業植物遺伝資源国際条約に加入して支障はないものと思われる。
植物遺伝資源に乏しいわが国において、民間企業、都道府県試験研究機関、研究独法などが、今後とも作物の新品種開発を展開していくためには、豊富な多様性を有する植物遺伝資源へのアクセスが不可欠である。
生物多様性条約の枠組みのもと、植物遺伝資源の収集導入は以前より困難になってきているが、この状況を打開するためには、比較的簡易な手続きで植物遺伝資源のアクセスができる食料農業植物遺伝資源国際条約に一刻も早く加入して、条件を整える必要がある。
すでに122もの国とEUが加入しており、締約国会合で条約実施の細部について検討されていると聞く。
ぜひともわが国は、食料農業植物遺伝資源国際条約に加入し、締約国の一員として問題となる可能性の高い利益配分の具体的な方法などに意見を反映させるべきである。

平成22年9月
独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構
近畿中国四国農業研究センター所長
長峰司

植物遺伝資源に関係する2つの国際条約の特徴

引用文献 大川雅央ら(2010)食料農業植物遺伝資源条約への加入を可能とする条文解釈の提案 熱帯農業研究 3.(印刷中)

(本記事は、日本農学アカデミー会報第13号(2010年6月刊行)より許可を得て転載いたしました。)