開発の社会的背景
なぜいま香り研究か
香りは果実のおいしさやその果実・品種らしさの決め手となる重要な要素です。消費者から好まれる果実の条件として、最近では味(甘味や酸味など)に加えて、香りが重要視されるようになりました。農研機構でも、リンゴやブドウ、カンキツにおいて風味の特徴と果実に含まれる味や香りの成分の関係を解析し、得られた情報を基に品種育成を進めています。具体的には、果実ごとに含まれる香気成分の種類、品種や栽培・貯蔵方法による香気成分の種類やバランスの変化、果実の成分組成と風味の評価の関係などを合わせて解析することにより、風味のカギとなる香気成分を特定し、望ましい成分を理想的なバランスで含むよう育種や栽培で制御していこうというものです。特に、ある香気成分を生成するかしないかは遺伝特性によってほぼ決まってしまうため、好ましい風味を醸し出す香気成分の特定と、その成分の生成に関わる遺伝子に着目して品種の育成に取り組むことが重要です。
ニホンナシの風味の特徴とは
ニホンナシの香りは一般に爽やかでグリーンな特徴があるとされ、リンゴやイチゴに比べて品種間の違いが少ないと考えられています。このため、ニホンナシ品種間の香りの特徴と香気成分の構成の比較研究はほとんどなされていませんでした。ところが、最近、ほのかにミルキーな甘い風味を持つニホンナシが特定の交雑集団の中に現れるようになりました。2025年3月に品種登録された「蒼月」はこのタイプの香りを持つ新品種です。多様なニホンナシの香りの再評価をきっかけに、新たな好ましい風味特性を持つ品種の育成や、好ましくないにおい成分の特定と軽減を目指すことになり、その研究の一環として、ミルキーな香りを含めたニホンナシの多様な香りの分析に着手しました。
研究の内容・意義
図2 ニホンナシ品種のγ-デカラクトン量
(分析計信号強度の積算値)
図 3 ニホンナシ品種のγ-デカラクトン量とミルキー感の強さとの関係
1 品種 2~3 果を用いて実施
ニホンナシ「蒼月」や「秋麗」7)に含まれるミルキーな甘い香りの重要成分をγ-デカラクトンと特定しました。γ-デカラクトンはモモや一部のイチゴに多く含まれる「桃らしい香り」の成分です。私たちが感じる香気成分のにおいの特性は濃度によって大きく変化することがわかっています。「蒼月」ではγ-デカラクトンを少量(モモの数%程度)含むことにより、「桃らしさ」ではなく、柔らかい甘い風味(ミルキー感)を与えているものと推定されます(図1、2)。
この研究では、①代表的なニホンナシ品種と、ミルキーな香りを持つ「蒼月」「秋麗」、およびこれらの交雑実生個体など合計28品種・系統の香気成分プロファイリング、②農研機構の訓練された官能評価パネルによるミルキーな感じの強さの評価、③香気成分濃縮物を個々の香気成分に分離しながらにおいを嗅ぐGC-におい嗅ぎ8)という探索方法の3つの方法を実施し、ミルキーな香りの正体を探しました。それぞれの研究から、①「蒼月」と「秋麗」の後代に特徴的に含まれる香気成分、②官能評価でミルキーな香りと最も相関が高い成分、③-1個別の香りにミルキーな甘い香りがあり、段階的に希釈した時に最後まで検知できた成分、③-2ニホンナシ育種担当者がGC-におい嗅ぎにおいて「これが『秋麗』の特徴的な香り」と指摘した成分が明らかになり、これら全てがγ-デカラクトンであったことから、γ-デカラクトンをミルキーな香りに寄与する最も重要な成分であると判断しました。このように重要香気成分が特定されたことで、その成分の生成制御に関わる遺伝子の特定やそれを利用した新たな品種の選抜、成分濃度を指標とした栽培管理技術の開発への応用が可能になります。
農研機構の訓練されたパネルによる官能評価では「蒼月」、「秋麗」に加えて、「はつまる」や「なつしずく」等の品種もミルキー感があると評価されました。これらの品種について交配親をさかのぼると、「筑水」の後代にあたるという共通点があります(図3)。一方で、福島県で育成されたニホンナシ品種「福島ナシ7号」からもγ-デカラクトンが検出された報告がありますが、この品種は「筑水」の後代ではありません。このため、ミルキーなナシのルーツについては、さらなる研究で明らかにしていく必要があります。
今後の予定・期待
育種への利用
これまでのニホンナシの育種では、香りによって呈される風味をそれほど重要視していなかったことから、香気成分を明確な育種目標とした事例はなく、糖度や肉質などの果実形質や栽培性で選抜した系統の中に結果として風味の良いものが含まれていました。しかし、本研究がさらに展開し、γ-デカラクトンの生成を制御する遺伝子が特定されれば、γ-デカラクトン生成の有無を推定するDNAマーカー9)の開発が可能になり、交雑種子が発芽した段階でミルキーな香りを持つ可能性がある個体を確実に選抜できる、効率的な育種の展開が期待されます。本研究の進展は、ニホンナシだけでなく、他の多くの果実で香りをターゲットとした育種のモデルケースとなることが期待されます。
青果物の風味研究への展望
果実をはじめ青果物の風味は複雑な呈味成分と香気成分から構成されています。これらを幅広く分析し、官能評価と合わせて解析することで、その作目らしさや品種の特徴に強く影響している成分を特定することが可能です。国産農産物の優れた風味に貢献している成分とその遺伝的背景や制御機構を明らかにすることで、優れた風味を持つ新品種のさらなる育成や、特性を生かした栽培・貯蔵技術の開発につながることが期待されます。また、青果物の香りの分析データと官能評価データの蓄積は、わたしたちの感じる「おいしさ」がどのように成り立っているのか解き明かすための重要な情報となります。
用語の解説
- 風味
- 風味(flavor)とは、味(taste)とにおい(smell, aroma)が合わさって感じる食品の特性のひとつです。人では口と鼻はのどでつながり、口からのどへ入った気体が鼻に抜ける(逆流する)構造をしています。味は舌の味覚細胞、においは鼻の嗅覚細胞で感じますが、この逆流があるために、私たちは通常は味とにおいを厳密に区別することができません。鼻をつまんで飲食した時に感じる味が、においの影響を取り除いた純粋な味、クンクンと鼻から気体を吸い込んだ時に感じるにおいはにおいそのものです。さらに、口中で食品をかんで初めて発生するにおいの成分もこの空気の逆流により鼻腔の嗅覚細胞に達し、風味の構成に加わります。このように、私たちが普段味と呼んでいるものには、実は香りが重要な役割を果たしています。
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- 官能評価
- 人の五感(視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚)を使って対象物の特性を評価する方法です。評価員(パネル)が評価した香り、味、食感などのデータを統計的に解析します。本成果では、味覚や嗅覚の感度などで選抜され様々な食品の官能評価経験がある訓練されたパネルが評価に参加しました。
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- γ-デカラクトン
- モモ、ココナッツ、キンモクセイ、加糖れん乳、和牛など多くの食品の風味や花の香りの重要成分です。一般に好まれる香気成分で、微量でもにおいとして感知できます。
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- 「蒼月」
- 「なつしずく」に「はつまる」を交雑して育成した極早生で大果の青ナシの新品種です。本品種のほのかなミルキーな甘い風味がγ-デカラクトンに由来することが明らかになりました。
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- 香気成分プロファイリング
- サンプルに含まれる香気成分の全てを対象として分析し、多変量解析によりサンプル間、処理群間の違いを特徴づけ、群間の相違に重要な香気成分を明らかにする解析方法です。
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- 「筑水」
- 「豊水」に「八幸」を交雑して育成した赤ナシの極早生品種です。品種登録は1988年、その後多くの品種の親となっています。
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- 「秋麗」
- 「幸水」に「筑水」を交雑して育成した中生の青ナシ品種です。品種登録は2003年、好ましい風味を有し、肉質ち密で高糖度であり良食味です。
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- GC-におい嗅ぎ
- 試料から抽出した香気濃縮物はおよそ数百の成分の混合物です。GC-におい嗅ぎはGC(ガスクロマトグラフ)を使って、香気濃縮物の成分をキャピラリーカラム(細長い管)の中で分離してにおいを嗅ぎ、その特性を記録する分析方法です。香気濃縮物を希釈しながら繰り返し、最後まで香りを感じられる成分が、その食品の風味に重要な役割を果たしているとみなします。(以下、概要図)
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GC-におい嗅ぎ概略図
- DNAマーカー
- ゲノム上の塩基配列の違いを利用した遺伝解析における目印。育種の選抜に用いるDNAマーカーは、選抜したい特性の原因遺伝子上、またはごく近傍に作成されるため、個体が目的の原因遺伝子を保有するかどうかを識別するための指標となります。
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発表論文
- 田中福代・中嶋直子・西尾聡悟・竹内由季恵・髙田教臣「特徴的な風味を有するニホンナシ品種・系統の香気成分プロファイル」園芸学研究(2025)24巻(2)、(115-125)
- 田中福代・西尾聡悟・風見由香利・朽方ひかり・天野夏帆・髙田教臣・竹内由季恵・早川文代「ニホンナシから検出されるミルキー感のある甘い風味の重要寄与成分」園芸学研究 (2025)24巻(2)、(135-143)
研究担当者の声
基盤技術研究本部 高度分析研究センター 環境化学物質分析ユニット 田中 福代
最初に「蒼月」を頂いた時の印象(衝撃)は忘れられません。たくさん分析した後の実食だったので、ある程度風味を予想していたのですが、「百分析は一食にしかず」でした。 新品種「蒼月」の詳細はプレスリリース「極早生で良食味のニホンナシ新品種『蒼月』」を参照ください。