開発の社会的背景
近年、様々なデータを用いて農業生産の向上を図る、データ駆動型農業が推進されており、気象データや土壌データが作物の育種や栽培管理等に役立てられるようになっています。一方で、作物の健康状態や生産性に直接影響を与えるものは、作物自身の生理生態反応(光合成、蒸散、転流など)であり、それらのデータをうまく活用できれば、さらなる生産性の向上が期待できます。しかしながら、日本の農業において作物の生理生態反応のデータを利用している例は少ないのが現状です。この原因としては、作物の生理生態反応の評価には、気象や土壌のデータの取得と比較して、より多くのコスト・労力・時間がかかることが挙げられます。そのため、低コスト・簡易・迅速に、作物自身の生理生態反応の情報を取得する手法が求められています。
研究の経緯
植物の成長に必要な物質は、その多くが光合成によって作られます。そのため、作物の生理生態反応のなかでも、光合成は作物の健康状態や生産性を把握するための指標として特に有用です。光合成の速度は、一般的に、植物がどれだけ二酸化炭素(CO2)を吸収したかを測定することで評価され、そのためのガス交換測定装置が市販されています。この装置は、光やCO2濃度などをコントロールする高度な環境制御機能を内蔵しており、光合成のメカニズムを研究するためには非常に便利ですが、装置自体が非常に高価で重量も大きく、装置内の環境と光合成速度の安定化に時間がかかるため、実際のほ場で大量のデータを効率よく取得するには不向きです。一方で、実測の代わりに数理モデルを用いて光合成速度を推定する手法もありますが、現在使われているモデルで推定するには、ガス交換測定装置を使って事前にパラメータを同定する必要があり、さらに同定には1枚の葉に数十分以上という時間を要します。このように、ガス交換測定がボトルネックとなり、光合成データの取得には非常に高いハードルがあるのが現状です。そこで本研究では、既存のモデルとセンシング技術を組み合わせて、ガス交換測定を必要としない光合成速度の推定法の開発を目指しました。
研究の内容・意義
- 本手法のしくみ
本手法では光合成速度に強く影響する葉緑体の電子伝達速度7)を、葉のクロロフィル蛍光、分光反射率、光強度から推定します。同じく光合成速度に強く影響する気孔コンダクタンス(葉の気孔の開き具合を示す指標)を、葉温と各種環境要素の計測および葉の熱収支解析8)によって推定します。これらの推定値と光合成生化学モデルを組み合わせることで、ガス交換測定なしで、葉の光合成速度を推定することが可能となりました(図1)。
- 推定精度
本手法を様々な生育ステージのコムギ(茎立期~成熟期)とダイズ(開花期~成熟期)の葉において検証したところ、ガス交換測定装置で実測した値と本手法で推定した値との間の誤差の指標(二乗平均平方根誤差(RMSE))が2.6~3.8 μmol m-2 s-1となり(図2)、葉の光合成速度を精度良く評価可能であることがわかりました。
- 利点
本手法を基に、シンプルに光合成速度を推定するための装置を作ろうとした場合、既存のガス交換測定装置の5~10分の1程度のコストで作成が可能です。一方で、光合成の環境応答や光合成のポテンシャルを調べたい場合などは、高度な環境制御機能を搭載した既存の装置が必要になります。また、本手法で必要なセンサは小型・軽量化が進んでおり、片手で持って利用できる装置の開発も可能で、低労力で光合成が推定できると考えられます。さらに、これらのセンサの測定時間はすべて数秒以内であり,非常に高速に光合成速度を推定できます。
- 適用可能範囲
本手法のベースとなっている光合成生化学モデルは、C3植物9)全般に適用可能です。さらに、葉の熱収支解析はほとんどの植物葉に適用可能なため、本手法を利用できる植物は非常に多く、作物の健康状態や生産性を把握するための汎用性の高い手法として利用可能です。
- 留意点
本手法は、光の吸収率などの葉の特性によって、推定される電子伝達速度の誤差が大きくなることがあります。これらの値は植物種によって異なるため、より高い推定精度を求める場合は、事前に妥当な値を検証することが必要です。また、葉近傍の気流の動態を表す葉面境界層コンダクタンスの値が大きく外れると熱収支解析が不正確になり、光合成速度の推定誤差が著しく大きくなるので注意が必要です。
- 活用方法
大量のサンプルの光合成を知りたい場合は本手法を、より正確な測定にはガス交換測定を使用するといったように、状況や目的に応じて使い分ける必要があります。また、精度の高いガス交換測定を用いて少ないサンプルで本手法を校正し、その後、校正した本手法を用いて大量のサンプルの光合成速度を推定するというような、複数の手法を組み合わせた高精度かつ高効率な光合成評価も可能です。
今後の予定・期待
今後は、本手法を利用した光合成速度を推定する装置の開発や、より簡易な手法の開発を検討しています。それらを利用することで、光合成速度の情報に基づいて効率よく多収品種を選抜したり、光合成を最適化するような栽培方法を開発したりすることが可能になり、育種・栽培研究が高速化することが期待できます。さらに、光合成速度の情報が容易に入手できるようになれば,その情報を作物モデルに組み込むことも容易になり、より高精度で作物の生育や収量を予測できるようになると考えられます。食物連鎖の出発点となる植物の光合成は、動物を含む地球環境全体に深く関わっており、本手法は、農業分野だけでなく生態学や生物多様性の研究においても活用されることを期待しています。
用語の解説
- 光合成速度
- 単位時間、単位面積当たりに光合成によって吸収される二酸化炭素の数(μmol m-2 s-1で表されることが多い)。[ポイントへ戻る]
- ガス交換測定
- 光合成速度は、一般的に、同化箱またはチャンバーと呼ばれる透明な容器を用いて測定します。対象を同化箱に入れて、同化箱に入る空気と出ていく空気のガス(主に二酸化炭素)の濃度、および流れる空気の流量を測定することで光合成速度が計算できます。同化箱法やチャンバー法とも呼ばれます。[ポイントへ戻る]
- 光合成生化学モデル
- Farquharらが1980年に発表したC3植物における光合成速度の数理モデル。光合成が行われる葉緑体内の生化学反応が数式で記述され、光合成速度が二酸化炭素濃度、光強度、温度に対してどのように変化するかが推定できます。[概要へ戻る]
- クロロフィル蛍光
- 植物体内のクロロフィルが、吸収した光の一部を放出する際に出す蛍光。この蛍光強度の変化を測定することで、光合成に関する様々な情報を取得できます。パルス変調法と呼ばれる手法で計測されるのが一般的ですが、この手法は葉に強いフラッシュを当てる必要があるため、主に近接センシングの際に用いられ、葉から遠く離れたところからの測定(リモートセンシング)には向きません。リモートセンシングの分野では、SIFと呼ばれる、太陽光の下で植物が発するクロロフィル蛍光を計測する手法が用いられています。[概要へ戻る]
- 分光反射率
- 光の波長ごとの反射率。人間は約400~700 nmの波長の光を色として認識していますが、分光反射率の測定では人間の目に見えない波長の光の反射率も測定することができます。この分光反射率から、物質の性質や含有物を同定する手法ことが可能です。植物では、分光反射率から葉のクロロフィル含量や窒素含量を推定する研究等が行われています。[概要へ戻る]
- 環境要素
- 本手法に必要な環境要素は、気温、湿度、風速、光合成有効光量子束密度(単位時間に単位面積を通過する、光合成に有効な400 nmから700 nmまでの波長の光量子の数)です。[概要へ戻る]
- 電子伝達速度
- 葉緑体のチラコイド膜上で行われる、光エネルギーを用いた酸化還元反応の速度。この反応により、光合成で二酸化炭素を有機物に変えるために必要な物質が生成されます。[研究の内容・意義へ戻る]
- 熱収支解析
- ある物質における熱の移動を解析する手法。植物の研究分野では、葉面の放射収支、対流による熱の移動(顕熱輸送)、対流と蒸散による熱の移動(潜熱輸送)を解析することで、葉の温度や気孔の開き具合である気孔コンダクタンス等を推定することができます。[研究の内容・意義へ戻る]
- C3植物
- 光合成の過程で、最初にルビスコという酵素が触媒することによってCO2を固定する植物。このCO2固定反応の最初の産物が炭素を3つ持つ化合物であることに由来します。地球上の植物の大部分はC3植物であり、C3植物は地球上の全植物の炭水化物生産の90%に寄与しているとも言われています。[研究の内容・意義へ戻る]
発表論文
Kimura Kensuke, Kumagai Etsushi, Fushimi Erina, Atsushi Maruyama, 2024, Alternative method for determining leaf CO2 assimilation without gas exchange measurements: Performance, comparison and sensitivity analysis. Plant, Cell & Environment, 47, 992-1002.
https://doi.org/10.1111/pce.14780
研究担当者の声
農業環境研究部門 気候変動適応策研究領域 研究員木村 建介
学生時代から考えていた研究でしたが、当時は装置もアイデアも不十分でした。それを実現させてくれたグループのメンバーと協力してくれた方々に感謝です。私は極端な夜型人間なので、植物に合わせた早朝計測は大変でしたが頑張りました。今回は光合成速度の「推定」法ですが、今後は新しい「実測」法の開発にもチャレンジしたいです。