開発の社会的背景
薬剤耐性菌の出現が社会的問題となる中、感染症予防のためワクチン開発の重要性が一段と高まっています。畜産分野で用いられるワクチンは、安全性や有効性に加えて経済性が大きく求められます。また、近年では、畜産動物の飼育においても動物福祉の観点から、動物にストレスを与えないワクチンの接種方法が求められるようになっており、さらに、畜産の大規模化が進んでいる状況においては、飲水による経口投与などワクチン接種の省力化も重要なポイントとなっています。一方、こういったワクチンの開発には多大な時間とコストがかかることから、畜産現場で使用しやすい生ワクチンを短期間かつ経済的に開発する手法が求められていました。
研究の経緯
これまで農研機構では、豚丹毒菌の弱毒株を用いた経口投与型ベクターワクチン6)の開発に取り組んできました。ベクターワクチンは、安全で免疫誘導効果の高い弱毒株を作製し利用する必要がありますが、豚丹毒菌のゲノム上にある1,700個以上の遺伝子の中から、病原性に関与する遺伝子を同定することは極めて困難でした。
豚丹毒菌をはじめとする細胞内寄生菌7)の多くは、生存に必要な栄養素を感染細胞に依存しており、そのために不必要となった栄養素合成に関わる多くの遺伝子が進化の過程でゲノム上から脱落する「ゲノム収縮」が起こっています。本研究では、豚丹毒菌のゲノム上に脱落せずに保存されている栄養素合成に関わる遺伝子は、この菌の感染に特に重要な「病原遺伝子」であるという仮説を立て実験を開始しました(図1A)。
研究の内容・意義
ゲノム解析の結果から、豚丹毒菌は7種のアミノ酸を合成できる一方、その他のアミノ酸は感染細胞に依存していることが判明しました。そこで、豚丹毒菌のゲノム上に保存されているすべてのアミノ酸合成に関わる合計14個の遺伝子について、本菌とマウスマクロファージを共培養した時に それらの遺伝子が働いているかどうか、すなわち発現しているかどうかを解析しました。その結果、解析した14個のうち、7個の遺伝子が活発に発現していることが確認されました(図1B)。これら7個の遺伝子を「病原遺伝子」の候補としましたが、遺伝子操作によりゲノム上から遺伝子を除去することができたのはプロリン合成に関わる3個の遺伝子(proA, proB, proC)のみであり、残り11個の遺伝子は豚丹毒菌の生存に必須な遺伝子であることが予想されました。プロリン合成に関わる3遺伝子について、それぞれの遺伝子欠損株(ΔproA, ΔproB 又は ΔproC)、proA 及び proB の2遺伝子欠損株(ΔproBA)、proA, proB 及び proC の3遺伝子欠損株(ΔproBAC)の合計5株の遺伝子欠損株を作製し(図1C)、マウスマクロファージを用いて菌の増殖能を確認したところ、いずれも増殖能の低下が認められ、弱毒化していることが判明しました(図2a、2b)。また、これらの遺伝子欠損株を免疫したマウスは強毒株の攻撃に対して完全な防御を示すことが確認されました。さらに、ミルクと混合したΔproBAC を経口投与した豚においても、完全な防御が誘導されることも判明しました(表1)。
豚丹毒菌で見られるゲノム収縮は、マイコプラズマをはじめ、ライム病菌、リケッチア、クラミジア、バルトネラなどの病原体でも認められ、また、連鎖球菌やクロストリジウム属菌でもアミノ酸合成に関わる多くの遺伝子が欠損していることが確認されています。ゲノム情報から栄養素の合成に関わる遺伝子のみに着目して病原遺伝子を検索する手法は、これら病原細菌の生ワクチン開発にも応用可能であると考えられます。
今後の予定・期待
今回の技術により開発した生ワクチン候補株は既存の生ワクチンと異なり弱毒化機構が明白であり、病原性が復帰して強毒化する可能性は極めて低いため、本ワクチン候補株の実用化が期待されます。また、これらの株に異種病原体の遺伝子を発現させることにより、豚丹毒とそれ以外の病気を同時に予防できるベクターワクチンとしての利用を検討しています。
用語の解説
- 豚丹毒菌
- 豚をはじめとする哺乳類や鳥類など多くの動物種に感染する人獣共通感染症の病原体。豚及びイノシシでは敗血症や関節炎、心内膜炎等の症状を引き起こす。豚とイノシシの豚丹毒は届出伝染病に指定されてり、毎年2,000頭前後の発生が確認されている。[ポイントへ戻る]
- 生ワクチン
- 感染するが病気を起こさない弱毒化した細菌やウイルスを用いたワクチン。[ポイントへ戻る]
- ゲノム
- 生物のもつ遺伝子(遺伝情報)の全体を指す言葉。細菌では染色体とプラスミドが含まれる。[概要へ戻る]
- マクロファージ
- 白血球の一種。病原体を貪食・殺菌することができる免疫細胞。[概要へ戻る]
- ゲノム収縮
- 進化の過程で不必要な遺伝子をゲノム上から脱落させてゲノムサイズが縮小している様子。退行的進化の一つであり、細胞内寄生菌の多くはこの形質を示すことが知られる。[概要へ戻る]
- ベクターワクチン
- 弱毒化した病原体に、目的の抗原タンパク質をコードする遺伝子を組み込んだ組換えワクチン。[研究の経緯へ戻る]
- 細胞内寄生菌
- マクロファージ等の食細胞内に寄生し増殖する細菌。[研究の経緯へ戻る]
発表論文
Microbiology Spectrum, 2022, https://doi.org/10.1128/spectrum.03776-22
参考図