開発の社会的背景
持続可能な農業の実現に向けて、植物が潜在的に持っている力を引き出し、環境ストレスや病害虫に対する耐性などを向上させ得るゲノム編集技術の重要性が高まっています。ゲノム編集を行うには、ゲノム編集酵素を細胞内で働かせる必要があります。しかし、植物では細胞壁が邪魔をしてゲノム編集酵素を細胞内に直接導入するのが困難なため、一時的にゲノム編集酵素を作る遺伝子を導入する必要がありました。導入されたゲノム編集酵素の遺伝子は交配後代で選抜を行うため、最終的な作物には残りません。しかしジャガイモなど栄養繁殖性作物では交配後代を得ることが難しく、この方法を利用することは困難でした。そのため、これらの課題を解決する新たなゲノム編集技術の開発が望まれていました。
研究の経緯
目的のタンパク質を細胞内で働かせる方法として、ウイルスベクターを利用する方法があります。ウイルスベクターは細胞内で増殖するため、目的タンパク質を大量に生産可能なこと、自律的に植物体内を移行するため、一度の操作で多くの組織にタンパク質を届けられることなどの利点があります。一方で、大きなタンパク質の導入は難しいという欠点もあります。CRISPR/Cas92) に代表されるゲノム編集酵素はいずれも大きなタンパク質であるため、自律的に複製するウイルスベクターを用いた植物のゲノム編集は困難でした。2020年6月に中国のグループがsonchus yellow net rhabdovirus(SYNV)という、主にキク科の雑草に感染する植物ウイルスベクターを用いて、植物のゲノム編集に成功しました。しかし、SYNVはごく限られた範囲の宿主植物にしか感染できず、農業上重要な作物のゲノム編集には使えませんでした。また、この報告では、ゲノム編集酵素Cas9により狙った位置に変異を誘導することはできましたが、どのような変異が生じるかをコントロールすることは困難でした。農研機構では植物ウイルスに関する研究の蓄積を生かして、多くの作物に利用可能で、狙った変異を正確に導入することができるゲノム編集技術の開発に取り組みました。
研究の内容・意義
従来のゲノム編集法では、変異が起こる効率が低いため、抗生物質等を用いてゲノム編集酵素の遺伝子が導入された個体を選抜した後に、その交配後代からゲノム編集酵素の遺伝子を持たない個体を得る必要がありました(図(1) )。研究チームは、モデル植物であるベンサミアナタバコと、これを含む多くのナス科植物に感染するジャガイモXウイルス(PVX)ベクターを用いて、ゲノム編集酵素を大量に産生させることで高効率にゲノム編集を行う方法の開発を目指しました。PVXは植物への病原性が低いため、感染植物の生育に大きな影響はありません。また、植物ウイルスはヒトを含む哺乳動物には感染しません。 植物ウイルスは傷から侵入するものが多く知られており、葉に傷を付けてウイルスを擦り込むことにより感染させることができます。PVXベクターはゲノムがRNAであるRNAウイルスであるため、Cas9およびガイドRNAを産生するよう改変したPVXベクターを直接タバコ葉肉細胞に感染させることにより、外来DNAを用いることなくタバコのゲノムに変異を起こすことができました。PVXベクターを感染させた葉から、組織培養3) により、抗生物質等による選抜を行わずに再生させた個体において、2-4%の効率で変異をもつ個体が得られました(図(2) )。 DNAを切断する酵素であるCas9とDNA修飾酵素を融合させることにより、標的遺伝子の特定の場所に正確に変異を誘導する手法が開発されており、より精密に農作物のゲノムを改変する方法として注目されています。しかしそのような変異を誘導するためのゲノム編集酵素は、Cas9よりもさらにサイズが大きくなってしまうため、細胞内に導入することが困難であり、これまでウイルスベクターを用いて植物のDNAに正確に変異を起こすことに成功した例はありませんでした。今回開発した方法では、Cas9とDNA修飾酵素の融合タンパク質遺伝子もPVXベクターによって細胞内に導入可能であり、PVXベクター感染葉より再生した個体において、標的としたゲノム上の位置に正確に変異を起こすことに成功しました。 PVXは種子伝染しないことが知られており、種子繁殖した後代植物では完全にウイルスをなくすことが可能です。一方、栄養繁殖性の植物に利用する際には種子繁殖ができないため、茎頂培養などの方法でウイルスを除去することにより、ウイルスベクターを含まないゲノム編集植物が得られると期待されます。
今後の予定・期待
PVXは多くのナス科作物に感染可能であり、ナス科作物であるナス、トマトなどにおいて従来よりも短期間でゲノム編集個体を得るためのツールとしての活用が期待されます。また、ジャガイモなど栄養繁殖性の植物への利用や、アグロバクテリウム4) による形質転換が困難なためにこれまでゲノム編集が不可能だった植物への利用などが見込まれ、ゲノム編集の適用可能な植物種の拡大に繋がると期待できます。
用語の解説
ゲノム編集酵素
配列特異的にDNAを認識して切断あるいは修飾する活性をもつ酵素(タンパク質)で、標的配列を自由に選べるもの。ジンクフィンガーヌクレアーゼやTALENなどが用いられてきましたが、任意の配列に対して容易に適用できるCRISPR/Cas9が登場してからは、CRISPR/Cas9が使われる機会が多くなっています。[概要へ戻る]
CRISPR/Cas9
Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats / CRISPR-associated protein 9 の略。元々は細菌がもつ免疫機構の一部で、DNAを切断する酵素であるCas9と標的配列を認識するガイドRNAの二分子で効率よく二本鎖DNAを切断すること、ガイドRNAの設計により標的配列が容易に改変可能なことなどから、ゲノム編集酵素として現在最も利用されています。[研究の経緯へ戻る]
組織培養
植物の既に分化した組織(本成果の場合は本葉)を、適切な培地条件で培養することにより、細胞の脱分化・再分化を誘導し、個体を再生させることが出来ます。組織培養の条件や難易度は植物種によって大きく異なります。[研究の内容・意義へ戻る]
アグロバクテリウム
土壌細菌の一種で、植物細胞にDNAを送り込む性質をもつことから、遺伝子組換え植物の作出に多く使われます。[今後の予定・期待へ戻る]
発表論文
Ariga H, Toki S, Ishibashi K, Potato Virus X Vector-Mediated DNA-Free Genome Editing in Plants. Plant and Cell Physiology 61: 1946-1953. https://doi.org/10.1093/pcp/pcaa123
参考図
図.ウイルスベクターを用いた植物のゲノム編集法
(1)従来法では、まずゲノム編集酵素を発現する遺伝子を一時的に植物に組み込み、抗生物質耐性等により、導入したDNAを持つ個体を選抜する必要があります。ゲノムに組み込んだCas9遺伝子等の外来DNAは、交配によって取り除かれます。
(2)ウイルス粒子を直接接種するウイルスベクター法では、RNAをゲノムにもつPVXベクターから産生したゲノム編集酵素の働きにより高効率で変異が生じるため、無選抜で組織培養することにより最初から外来DNAをもたないゲノム編集個体を得ることができます。