開発の社会的背景と研究の経緯
わが国の黒毛和種集団は霜降りを中心とした枝肉形質の改良を目的として、ごく一部の優秀な種雄牛が集中的に利用されており、2022年度の種雄牛別子牛市場出荷頭数では、わずか15頭の種雄牛で取引される肉用子牛全体の約45%が占められています(農林水産省畜産振興課調べ)。その結果、黒毛和種繁殖牛集団の近交度は年々上昇し、2020年度生まれの繁殖牛の平均は0.097に達しています((公社)全国和牛登録協会)。いとこ間の交配による近交度が0.0625であり、これはそれよりも高い値となっております。近交度が上昇すると生物としての適応性が低下し、死産、不妊、受胎率の低下や発育不良などが生じるため、現在のペースで近交度が上昇していくと将来的に生産性が大きく低下することが懸念されます。また、黒毛和種はわが国固有の遺伝資源であり、海外からの遺伝資源の導入が不可能であるため、枝肉形質の改良を推進するだけでなく、近交度の上昇抑制を図っていくことが重要です。これまでは近交度の算出には家系情報が利用されてきましたが、農家において次世代の雌牛を選定する場合などは家系情報が完備されていない場合があり、これらの個体について近交度を正確に評価することは困難でした。
一方、近年ゲノム解析技術の進展により、黒毛和種のゲノム解析が大幅に進み、ゲノム全域で数千万個の一塩基多型が見つかりました。現在ではこのうち数万個の一塩基多型を容易に検出できる技術が開発され、個体のゲノム情報をより簡単に収集できるようになりました。ゲノム情報はこれまでの家系情報よりも正確に個体の遺伝的特性を評価できると期待されており、実際、牛の育種現場ではゲノム情報に基づいて種雄牛の遺伝的能力を評価して選抜しています。一方で、近交度の評価にはまだゲノム情報を活用する手法が確立されておらず、依然として家系情報を中心に近交度が算出されています。そこで、農研機構では、ゲノム情報を利用して黒毛和種の近交度を評価する手法を開発するとともに、家畜改良センターが収集したゲノム情報を用いて開発した手法の評価精度を検証しました。
研究の内容・意義
生物の遺伝情報をコードするDNAは二重らせん構造になっており、染色体という棒のような形状をしています。染色体は2本で1組となっており、それぞれ父親と母親から1本ずつ受け継がれます。細胞内では、2本の染色体上の塩基配列が対になっており、近親交配が行われて近交度が増すと、対になった塩基配列が同じになる確率が高くなります。今回開発した方法は、ゲノム全体をカバーする3万個以上の一塩基多型から配列が同じ領域の長さを定量化し、それにより近交度を評価します(図1)。
図1 ゲノム情報を利用した近交度の評価手法の原理
開発した評価法の性能を検証するため、家畜改良センターで飼育されている黒毛和種集団を対象に、最大で17世代まで整備された家系情報から算出した近交度と今回開発した方法を利用してゲノム情報のみから算出した近交度を比較しました(図2)。その結果、ゲノム情報に基づく近交度と家系情報に基づく近交度には高い相関があり、回帰係数は1.01と高い精度が確認されました(図3)。この結果は、ゲノム情報のみでも正確な近交度の評価が可能であることを意味しており、家系情報が充分に整備されていない場合でもゲノム情報を利用することで正確な近交度を評価できます。
図2 ゲノム情報を利用した近交度評価法の精度の検証方法
図3 家系情報に基づく近交度(F_PED)とゲノム情報に基づく近交度(F_ROH)の関係
ゲノム情報から算出した近交度は最大で17世代まで整備された家系情報から算出した近交度に比べてわずかに高い値を示すものの、いずれの年次においても同じような推移を示すことを確認しました(図4)。分析に供した頭数は年次によってばらつきはありますが、ゲノム情報を利用した場合、どの世代においても安定して近交度を評価できることが明らかになりました。
図4 近交度の年次推移の比較
注)棒グラフは分析に供した頭数を示す
今後の予定・期待
今回、肉用牛の黒毛和種において、家系情報がなくても、ゲノム情報を利用することで近交度を正確に評価できることが初めて明らかになりました。わが国の多くの育種現場では黒毛和種のゲノム情報が蓄積されているため、近交度を考慮した交配計画を策定するなどして、本成果をただちに黒毛和種の近交度の上昇を抑制する対策に役立てることができます。今後は種雄牛を生産している各県の公設試験場などと連携して、遺伝的能力の改良と近交度の上昇の抑制を両立できる技術を確立し、わが国の黒毛和種の生産性の向上に貢献します。また、公設試験場で生産している種雄牛についてゲノム情報を利用した近交度を県の普及指導員から繁殖農家に情報を提供することで、繁殖農家でも正確な近交度を考慮した交配が可能となり、子牛生産の向上に寄与することが期待できます。公設試験場や研究担当者にゲノム情報を利用した近交度の算出方法を周知することで、早急な技術の普及を目指します。開発した近交度の評価方法は肉用牛以外にも適用できるため、他の畜種での活用も期待されます。特に、沖縄県の在来豚品種であるアグー等の希少系統では集団のサイズが小さく、近交度が高まっていることが懸念されています。しかし、家系情報が不十分であることが多く、近交度を正確に評価することが困難でした。開発したゲノム情報を利用した近交度を活用することで、適切な交配計画を策定して近交度の上昇を抑制することが期待されます。
用語の解説
- 近交度
- 近親交配の度合いを表す数値です。近交度の算出例として、親子間での交配では0.25、いとこ間の交配では0.0625になります。宮城県で実施された黒毛和種の先行研究では、近交度が0.1上昇すると、日齢体重が約12g減少することが報告されております(内田と山岸 1993 日畜会報)。これは300日齢体重に換算すると3.6kgに相当します。[ポイントへ戻る]
- 家系情報
- 親子間等の血縁関係に関する情報です。子牛登記証明書には二代祖までの父母名と三代祖の父名が記載されています。近交度を考慮する場合に、繁殖農家や肥育農家ではこれらの情報を入手することができますが、近交度評価のための家系情報としては不十分であり、近交度を過少に評価してしまいます。[ポイントへ戻る]
- 枝肉
- 枝肉とは牛1頭から皮や骨、内臓などを取り除いた状態のもののことを指します。その形が木の枝に似ていることから枝肉と呼ばれています。流通する一般的な牛肉の大半はこの枝肉をベースとして金額を決定していきます。枝肉の観察値(測定された成績、観測値)である枝肉重量、ロース芯面積、バラの厚さ、皮下脂肪の厚さ、歩留、脂肪交雑を枝肉形質と呼びます。[概要へ戻る]
- 一塩基多型
- DNAはヌクレオチドという構成単位からできていて、ヌクレオチドはデオキシリボースという糖、リン酸、塩基が一つずつ結合した構造になります。ヌクレオチドを構成する糖とリン酸は一種類ずつですが、塩基にはA(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の4種類があり、ヌクレオチドも4種類存在しています。DNAのヌクレオチドのうち、塩基の種類だけに着目し、並べたものを塩基配列と呼びます。この塩基配列が遺伝情報であり、個体ごとに1つの塩基が欠損、挿入あるいは置換によって異なっているところが存在します。このうち1つの塩基の置換によるものを一塩基多型と呼びます(図5)。
図5 個体ごとの1つの塩基配列の違いの例
[概要へ戻る]
発表論文
Nishio Motohide, Inoue Keiichi, Ogawa Shinichiro, Ichinoseki Kasumi, Arakawa Aisaku, Fukuzawa Yo, Okamura Toshihiro, Kobayashi Eiji, Taniguchi Masaaki, Oe Mika, Ishii Kazuo. (2023) Comparing pedigree and genomic inbreeding coefficients, and inbreeding depression of reproductive traits in Japanese Black cattle. BMC Genomics 24, 376 (2023). https://doi.org/10.1186/s12864-023-09480-5