開発の社会的背景
転炉スラグの産出量全体の中で農業上の利用は1%程度と少ないですが、主に肥料や酸性土壌を中和する土壌改良材、土壌伝染性病害に対する被害軽減資材として利用されています。水稲栽培では土壌中に混和して、微量要素の補給や、イネ稲こうじ病が発生しにくい土壌環境に改善するなどの目的で利用されていますが(2021年農研機構プレスリリースhttps://www.naro.go.jp/publicity_report/press/laboratory/nipp/142915.html )、育苗期間中の利用はこれまで検討されていませんでした。
研究の経緯
水稲栽培における苗の準備は、浸種、催芽処理3) 、播種、出芽処理、育成の工程で行われますが、大規模農家ではこの一連の作業を複数回繰り返して行う必要があり、時間と手間がかかります。特に浸種から催芽処理までの種子予措作業は、育苗・直播栽培のどちらでも重要で、浸種液の水温や溶存酸素濃度(液中に溶解している酸素の量)等により種子の反応が異なるため、発芽するまで毎日種子の状況を確認し、種子の酸欠や腐敗を防ぐために適宜水を交換しなければなりません。このため、苗の準備に係るこれら一連の作業を効率化する技術があれば、水の節約と作業時間の短縮、作業負担の軽減が可能であると考えました。
研究の内容・意義
転炉スラグ懸濁液によるイネ種子の発芽促進
浸種液への混和には、図1 aのような粉状の転炉スラグ肥料を用いました。特定の商品に限った結果とならないよう、スラグAおよびスラグBの2商品を用意して対照と比較しました(以下、総称して転炉スラグ懸濁液)。イネ品種「キヌヒカリ」種子を、水の交換をせずチューブ内で転炉スラグ懸濁液に20° Cで4日間浸種すると、蒸留水に浸種した種子と比べて発芽が促進されることを確認しました(図1 b)。発芽が早まることで、浸種期間を約1~2日間程度短縮できると見込まれます(通常、15° Cでは約7日間、20° Cでは約5日間必要)。
図1 粉状の転炉スラグ肥料(a)とその懸濁液での種子浸種による発芽促進(b)
溶存酸素濃度の異なる条件での子葉鞘の伸長促進
1.の転炉スラグ懸濁液による浸漬処理を行った後、水の交換をせず引き続きチューブ内で転炉スラグ懸濁液中に浸漬させながら30° Cで1日間催芽処理を行うと、芽生えを保護する円筒状の鞘である子葉鞘(しようしょう)が著しく伸長します(図2 a)。そこで、異なる溶存酸素濃度条件で浸種を行った際の子葉鞘の伸長への影響について調べたところ、シャーレを用いた溶存酸素濃度が高い条件(水深が浅い)では、転炉スラグ懸濁液で処理した区と対照の蒸留水で処理した区には大きな差はありませんでした。一方、チューブを用いた溶存酸素濃度が低い条件(水深が深い)では転炉スラグ懸濁液区では子葉鞘の伸長が認められたのに対し、蒸留水区での伸長はほとんど認められませんでした(図2 b)。このことは、転炉スラグ懸濁液による生育促進効果により、酸素濃度が低く嫌気的な条件下であっても催芽が可能であり、初期生育が確保されることを示しています。
図2 転炉スラグ懸濁液での種子浸種および催芽処理による子葉鞘の伸長促進(a)溶存酸素濃度の異なる条件における子葉鞘の伸長(b)
溶存酸素高濃度区はシャーレを、低濃度区はチューブを用いて実施。異なるアルファベットは統計的に有意に差があることを示す。
無コーティング直播栽培の前処理で必要となる根出し処理での発根促進
芽だけではなく、根に対しても転炉スラグ懸濁液による浸種処理が影響するかを調査しました。省力、経済的な栽培技術として注目されている水稲無コーティング直播4) 栽培では、発芽・苗立ち率の向上を図るための出芽促進処理として催芽処理の代わりに根出し処理5) を浸種後に行います。しかし、根出し処理には約2日間を要し、催芽処理よりも約1日間作業期間が長くなります。転炉スラグ懸濁液に浸すこと(浸漬)によって根の伸長促進効果があれば、根出し処理の作業期間の短縮が期待されます。そこでこれを確認するために種子の根の生育を比較する試験を行いました。1.の転炉スラグ懸濁液による浸種処理を行った後、30° Cで2日間根出し処理を行った結果、蒸留水区と比べて種子根、冠根および側根の発根が促進されることがわかりました(図3 )。特に種子根と冠根はそれぞれ、発芽当初の養分吸収と活着を担う重要な根です。
図3 転炉スラグ懸濁液での浸種処理後の根出し処理による根の生育促進
催芽処理を省略したポット試験での出芽向上
催芽処理を省略した場合の生育促進効果の影響について調べるため、1.の転炉スラグ懸濁液による浸種処理を行った後、催芽処理を行わずにポットに播種して出芽を比較しました。通常育苗の播種方法と直播栽培で行われている4種類の播種方法(表面播種、浅層土中播種、土中播種、イタリア式6) )のいずれにおいても転炉スラグ懸濁液区では出芽が顕著に向上しました(図4 )。これにより、催芽処理の工程を省略して播種しても、転炉スラグ懸濁液による生育促進効果により出芽率が向上することが明らかになりました。
図4 通常育苗並びに4種直播を想定したポット試験における転炉スラグ懸濁液での浸種処理による出芽率の向上
いずれも転炉スラグ懸濁液での浸種処理後、催芽処理は行わずに播種。異なるアルファベットは統計的に有意に差があることを示す。
今後の予定・期待
本研究の結果から、水稲の種子予措作業における水の交換と催芽処理の工程を省略し、加えて浸種期間を短くした新規の種子予措体系の開発が見込まれます。また、無コーティング直播栽培では、根出し処理の期間の短縮が期待できます。今後は、育苗箱を利用した、より実際に近いスケールでの実証試験を行うことで普及に向けた研究を進めていく予定です。
用語の解説
転炉スラグ
製鉄所で銑鉄から鋼を製造するための転炉で副産物として生成される資材のこと。ケイ酸カルシウムが主成分で、酸化カルシウム、鉄、マンガン、ホウ素などの微量要素を含み、肥料や酸性土壌を中和するための土壌改良資材として利用されます。肥料としては「肥料の品質の確保等に関する法律」に規格が定められており、「鉱さいけい酸質肥料」などとして、稲作、畑作などに使用されています。
[ポイントへ戻る]
種子予措
播種前に種子に対して行う一連の作業のこと。選種、消毒、浸種、催芽処理までの工程が含まれます。
[ポイントへ戻る]
催芽処理
浸種して十分吸水した種子を発芽適温で保温し、播種前に発芽させる処理のこと。発芽率が向上するほか、発芽を揃える効果があります。一般的には、30° C・1日間の浸漬条件で行われ、催芽器を必要とします。
[研究の経緯へ戻る]
水稲無コーティング直播
代かきと同時に浅層土中に散播することで、従来の湛水直播で負担となっていた種子コーティングを省略しても高い苗立率を確保できる技術のこと。催芽処理もしくは後述の根出し処理を施した種子を用います。
[研究の内容・意義3.へ戻る]
根出し処理
水稲無コーティング直播で種子の出芽促進のために行われる、浸種して十分吸水した種子を脱水後に発芽適温で加温し種子の根だけを伸ばす処理のこと。本処理で作成された根出し種子は機械播種時の損傷に強くなるほか、苗立率も向上する効果があります。一般的には、30° C・2日間の条件で行われ、育苗器を必要とします。
[研究の内容・意義3.へ戻る]
イタリア式直播
イタリアで最も普及している省力的で手間をかけない湛水直播体系のこと。耕起した湛水・無代かきほ場に、浸種処理した種子を散播します。
[研究の内容・意義4.へ戻る]
発表論文
Kosuke Ota, Hikari Inoguchi, Takayuki Mitsunaga, Taketo Ashizawa (2024) Promotion of germination, rooting, and seedling emergence of rice (Oryza sativa L.) by soaking seeds in converter slag suspension before sowing. Soil Science and Plant Nutrition 71 (1): 68-78.
https://doi.org/10.1080/00380768.2024.2405835