プレスリリース (研究成果) 高機能型人工気象室を用いて未来環境が水稲に与える影響の一端を明らかに
- 温暖化に適応する新たな品種の育成・栽培技術の開発を加速 -
ポイント
農研機構では、作物生育における季節環境を精密に構築する人工気象室「栽培環境エミュレータ」1) を様々な研究に活用しています。本装置を用いて、21世紀末(2100年)の季節環境を人工的に構築し、水稲生育に与える影響を調査しました。その結果、現時点を超える気候変動の緩和策をとらない場合、高温と高CO2 濃度が生育を早め、収量と品質の低下を引き起こす可能性があることを明らかにしました。本成果は、将来の気候変動への対策として、温暖化に対する頑健な品種の育成、生育を管理するための栽培技術の開発などに役に立つことが期待されます。
概要
農研機構では、作物生育における季節環境を精密に再現あるいは模擬できる人工気象室「栽培環境エミュレータ」に、大きさや色などの作物形質を連続で取得可能な「ロボット計測装置」を内蔵した「ロボティクス人工気象室」(https://www.naro.go.jp/publicity_report/press/laboratory/rcait/154498.html )を開発し、イチゴの生育制御技術の開発等、様々な研究に利用しています。
今回、「栽培環境エミュレータ」を用いて、温暖化が進むと想定される将来(21世紀末、2100年)の生育環境(温度、湿度、二酸化炭素(CO2 )濃度等)を人工的に構築し、温暖化が水稲生育に与える影響について調査しました。
まず、過去の栽培年及び栽培地点における環境を「栽培環境エミュレータ」で再現し、水稲の開花までの日数が実際に野外環境で観察された日数と概ね類似した傾向になることを明らかにしました。次に、2種類の気候予測シナリオ2) に基づき、21世紀末の季節環境を「栽培環境エミュレータ」で構築し、水稲への影響を調べました。その結果、現時点を超える気候変動の緩和策をとらない想定のシナリオの場合、基準環境(1990年~1999年の平均環境)と比べて生育が著しく早まり、開花までの日数の大幅な短縮、白未熟粒3) の発生の増加などの変化がみられることを明らかにしました。また、遺伝子発現を調べた結果、開花促進、高温反応、高CO2 濃度反応に関わる遺伝子の発現に大きな変化が認められ、形質の変化と対応していることも明らかにしました。これら人工気象条件下での結果は、現時点を超える気候変動の緩和策をとらない場合、21世紀末には、高温と高CO2 濃度が水稲の生育を早め、白未熟粒の増加が起こることを示唆する新たな知見です。
今後、「栽培環境エミュレータ」を用いて、様々な作物における品種の環境応答の違い等を明らかにすることで、気候変動に対応した品種の育成や栽培技術の開発が加速することが期待されます。
図1 「栽培環境エミュレータ」を用いた21世紀末の季節環境が水稲生育に与える影響の予測
関連情報
予算 : 内閣府官民研究開発投資拡大プログラム(PRISM)、農林水産省委託プロジェクト研究「民間事業者等の種苗開発を支える「スマート育種システム」の開発 」(J007142)、運営費交付金
特許 : 特許第7182762号(特開 2023-105946)「人工気象装置および人工気象システム」
問い合わせ先など
研究推進責任者 :
農研機構 理事 兼 基盤技術研究本部 本部長中川路 哲男
同 基盤技術研究本部 農業情報研究センター センター長村上 則幸
研究担当 者 :
同 基盤技術研究本部 農業情報研究センター
インキュベーションラボ ラボ長 米丸 淳一
同 基盤技術研究本部 農業情報研究センター
インキュベーションラボ テクニカルスタッフ 和田 楓
同 作物研究部門 スマート育種基盤研究領域
育種ビッグデータ整備利用グループ 上級研究員 伊藤 博紀
広報担当 者 :
同 基盤技術研究本部 研究推進室 室長西川 智太郎
詳細情報
開発の社会的背景と研究の経緯
気候変動への対策には、原因となる温室効果ガスの排出量の削減や、植物等による吸収量の増加を図る緩和策と、気候変動によって生じた、あるいは近未来的に生じる可能性がある気候変動の影響に対して、社会の様々なシステムを調整し、軽減もしくは逆に利用する適応策があります。作物生産においては、主に気候変動への適応策となる技術開発が進められています。
温室効果ガスの増大に伴う地球温暖化は作物生産を不安定にし、食料供給の大きな問題となることが、気候予測シナリオを考慮した作物収量予測モデルから示唆されています。日本人の主食である水稲においても、地球温暖化によって生じる高温及び高CO2 濃度が収量と白未熟粒の発生に与える影響について、ガラス温室等を用いた試験研究により指摘されています。一方で、将来的に懸念される高温と高CO2 濃度に代表される温暖化環境を現在の野外環境で連続的に構築することは困難であるため、そのような環境が生育や最終的な作物生産に与える影響を調査することはできませんでした。
そこで本研究では、夏季の強い日照が必要な穀類の栽培が可能な高照度LEDを実装し、広範囲の温湿度制御とCO2 施用を外部からの気象データによって制御可能な高機能な人工気象室「栽培環境エミュレータ」を用い、地球温暖化が進行した21世紀末の季節環境(高温、高CO2 濃度)が水稲生育に与える影響について評価しました。
研究の内容・意義
模擬的に構築した過去の環境条件下での作物形質
気象庁が提供する過去の気象データ(気温、湿度、日射量)と地理情報(緯度、経度)を「栽培環境エミュレータ」に入力制御(図2 )することで同じ年の複数場所や複数年の同じ場所における野外に近い環境(気象の季節変化)を人工的に構築しました。
図2 「栽培環境エミュレータ」の環境制御システム(1台の構成)
本研究では、はじめに、再現環境と実環境で得られた形質データ間の関係性を確認しました。まず、農研機構の谷和原ほ場(茨城県つくばみらい市)の過去31年間(1990~2020)の夏季(6~9月)における平均気温の推移を、類似したグループ(クラスター)に分類する手法(クラスター分析)により5つのクラスターに分類しました。次に、各クラスターから1~2年を選び、試験年として設定しました。そして、それらの試験年における国内の異なる4か所の環境(気温、湿度、日射量、CO2 濃度)を再現し、感光性4) の異なる水稲5品種(あきたこまち、ひとめぼれ、コシヒカリ、日本晴、ヒノヒカリ)を栽培して、取得した形質データを過去の実環境で得られた形質データと比較しました。その結果、栽培地域の環境に大きく影響される開花までの日数(到穂日数)については、3品種(ひとめぼれ、コシヒカリ、日本晴)について、再現した人工環境下で得られた値と過去の実環境下で得られた値との間に高い相関関係が認められました(図3 )。
図3 再現した人工環境下(再現環境)と実環境下で得られた到穂日数の関係
大仙:秋田県大仙市、谷和原:茨城県つくばみらい市、稲田:新潟県上越市、筑後:福岡県筑後市。 ヒノヒカリはデータ不足により記載していない。
すなわち、「栽培環境エミュレータ」で再現した環境は、野外の実環境と類似した傾向を水稲の形質に生じさせることが部分的に可能であることを明らかにしました。今後、様々な季節環境を再現し、作物への影響を評価できる可能性が見いだされたと言えます。
疑似的な未来の環境条件下での作物形質
次に、2種類の気候予測シナリオ(RCP2.6及びRCP8.5)に基づいた温度とCO2 濃度の上昇を1990~1999年の茨城県つくば市(舘野)の気象データの平均値に全生育期間にわたって上乗せした擬似的な21世紀末の温暖化環境を「栽培環境エミュレータ」で構築し、前項1と同じ5品種を栽培しました。その結果、RCP8.5のシナリオでは、いずれの品種においても基準年に対して生育が早まり、到穂日数が短縮する傾向が認められました(図4 )。また、白未熟粒の発生が著しく増加しました(図5 )。この現象は、RCP8.5に準じた高温のみの環境下よりも、温度に加えてCO2 濃度も高い環境下で顕著な傾向にありました。
図4 21世紀末を想定した温度・CO2 濃度条件* 下での到穂日数の予測
*気候シナリオにより異なる。棒グラフ内の上下に伸びている縦線は標準偏差を表す。
図5 21世紀末を想定した温度・CO2 濃度条件* 下での白未熟粒発生の予測
*気候シナリオにより異なる。グラフは箱ひげ図(最大値、四分位範囲、最小値)を表す。
疑似的な21世紀末の環境条件下での生理状態
さらに、前項2で用いた温暖化環境のうち温度とCO2 濃度の両方に着目し、水稲の生理状態に関係する遺伝子の発現について網羅的な解析を行いました。その結果、RCP8.5の高温と高CO2 濃度が重なった環境では、開花を誘導するフロリゲン5) を制御する遺伝子の早期発現に加え、高温及び高CO2 濃度に応答する気孔6) 関連遺伝子群の発現に大きな変化が生じていることが明らかとなりました(図6 )。すなわち、温暖化が最も進んだ未来の環境においては、水稲の生理状態に大きな変化が生じることが想定されます。
図6 21世紀末を想定した温度・CO2 濃度条件* 下での遺伝子発現量の予測
*気候シナリオにより異なる。棒グラフ内の上下に伸びている縦線は標準偏差を表す。
今後の予定・期待
本研究の結果から、「栽培環境エミュレータ」で生育させた水稲にみられる季節的な生育変化は、実際の環境下で生育する水稲と概ね類似した傾向を示すことが明らかとなりました。これにより、「栽培環境エミュレータ」内の環境は野外環境と比べて光質、土壌、栽植密度などが異なるものの、予測される未来の環境条件で生育した際にみられる水稲の形質を「栽培環境エミュレータ」で評価できる可能性が示されました。今後、温暖化に対応した栽培技術の開発(田植え時期や施肥の量・時期の調整など)への利用が期待されます。
また、本研究の結果から、未来に想定される温暖化が作物生理に与える影響の一端が明らかとなりました。本成果を利用して、品種の環境応答の違いを明らかにすることで、気候変動に対して頑健な品種の育成を加速させることが期待できます。例えば、疑似的環境下で効果を確認しながら開花日を変化させる遺伝子や白未熟粒の発生を軽減させる遺伝子をDNAマーカーにより利用することで、温暖化に対応した品種を迅速に育成できると考えられます。
今後は水稲以外の作物においても研究を行い、気候変動に対応した品種の育成及び栽培技術の開発を多角的に進めていく予定です。
用語の解説
栽培環境エミュレータ
様々な栽培環境を再現するために構築した高機能な人工気象室。エミュレートとは、人工的に模擬することをいいます。過去や構築したい気象環境に関わるデータをPCから入力しリモート運転することが可能で、分単位の設定値変化により、野外の変化を模擬した栽培が可能です。[ポイントへ戻る]
気候予測シナリオ
人間活動に伴う温室効果ガスの大気中濃度が将来どの程度になるかを想定して複数の濃度変化のパターンを設定し、将来の気候への影響をシナリオにしたものです。本研究では、国際的に標準として用いられてきたRCP(代表的濃度経路)シナリオを引用し、そのうち、温度上昇を工業化以前と比べて2° C未満に抑えることを目指す想定(RCP2.6)と現時点を超える政策的な気候変動の緩和策をとらない想定であるRCP8.5(CO2 濃度が上昇し続ける)を使用しています(参照:IPCC第5次評価報告書 、https://www.ipcc.ch/report/ar5/ )。[概要へ戻る]
白未熟粒
米粒にでん粉が十分に詰まらないために、乾燥した米粒の一部または全部が濁って見える状態であり、これが多発すると精米時の歩留まりが下がる原因となります。白未熟粒の発生は、登熟前半の高温により増加することが明らかとなっています。近年、高温でも白未熟粒の発生が起きにくくなる高温耐性品種に注目が集まっています。[概要へ戻る]
感光性
植物には、季節的な日長(昼の長さ)の変化や温度変化を認識して、子孫を残すために最適な季節(時期)に花を咲かせる仕組みが備わっています。このうち、日長の変化によって開花が早まる仕組みを感光性とよびます。感光性の程度は品種によって異なることから、各栽培地においては異なる感光性程度を持った品種が使われています。[研究の内容・意義へ戻る]
フロリゲン
植物の花芽形成を誘導する生理物質。植物が、季節的な日長の変化や温度の変化を認識して、子孫を残すために最適な季節(時期)に花を咲かせるための生存戦略の鍵になっていると考えられています。栽培域の拡大や二毛作などの栽培体系に合わせて、開花時期が異なる品種が利用されています。[研究の内容・意義へ戻る]
気孔
光合成、呼吸などのためのガス交換に利用される植物の葉などの表皮に存在する小さな穴を気孔と呼びます。隣接した2つの孔辺細胞が開閉することにより、ガス交換の調節が行われる仕組みとなっています。[研究の内容・意義へ戻る]
発表論文
H. Itoh, H. Yamashita, K. C. Wada, J. Yonemaru, Real-time emulation of future global warming reveals realistic impacts on the phenological response and quality deterioration in rice. Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. 121(21), e2316497121(2024).
https://doi.org/10.1073/pnas.2316497121